この空を飛べたら

 このところ、国産ジェットというものが話題になっているらしい。それは旅客機であったり、自衛隊の実験機であったり、やれ滑走路を走った、やれ数十分ばかり飛んだ、などその動向に日本中が一喜一憂しているように見受けられる。
 「日本国民の夢を乗せて」など、騒ぎすぎの感が無きにしも非ずだが、重要なのはそれが純日本産の飛行機であることで、かつてGHQにより日本人が自分たちの「翼」を取り上げられたことに起因するものであろう。
 かつての日本は飛行製造の技術において、世界でもトップクラスと評されていた。
 しかし、紀元2600年に作られたいわゆる「零戦」をはじめ、終戦前の「紫電改」などは米軍より“ベストオールラウンドファイター”と評されたほどのクオリティがあったにも関わらず(最もそれゆえなのかも知れない)日本の飛行技術は米軍に霧散させられた。
 かように、日本は飛空において優れた技術を持っていたとされるが、その起源は大変に原子的なものであったらしい。日本人で最初に空を飛んだ、つまり飛行に成功したのは江戸時代に備前に住んだ「表具屋幸吉」であると言われている。両の手に大きなふすまを羽に見立てて取り付け、橋の欄干から飛び降りたというのだ。結果は飛ぶ、というより墜落に近かったと記されている。

 さて、その幸吉から数百年、今から80年近く前のことになってからの話である。
 私の付属小学校の一年の同級にKという男が居た。彼は学校の成績は良かったとは思わないが、言葉たくみな人間であった。
 ある日、休み時間だったと記憶しているが、彼が私に近づいてきた。
 よく見ると真剣な顔、忍び足で、それでいてなぜか得意そうに口の端が上がっている。
 「あんな、主らにだけ教えてやる」
 偉そうな文句を駆りつつ、彼はあたりを見回し、商人がよろしくない商談をするかのように声を潜めた。
 そのときに居たのは私と○○、○○の三名である。彼の異様な言動にみなが訝しがった。
 しかし、かれはそんなことはおかまいなしに、
 「うちの兄ちゃん、帝大に行ってるの知ってんだろ?」。
 これは事実であり、無論周知のことなので、三名とも頷いた。
 「その兄ちゃんがな、壱円五十銭で飛行機が作れるって言うのさ」。
 壱円五十銭といえば、その当時で微妙な「安さ」だ。机や本棚が買える程度の金額で、親に頼みさえすれば、子供でも何とかなる程度の数字である。
 自分たちで飛行機を操る。これはこの上なく魅力的な話だが、飛行機というものはエリートや金持ち、要するに大人が持つ、あるいは操縦するものであり、逆にあまりに身近にある話とするとかえって胡散臭い話になる。三名で顔を見合わせ、問い返しをする。
 「紙飛行機としては高くないかね」。
 しかし、相手にならんな、という感じでKはフン、と鼻を鳴らした。
 「馬鹿こけ、本物の飛行機だわね」。
 これだから、下々の者どもは、と言わんばかりの目つきで彼は三名を睥睨する。
 「何しろうちの兄ちゃんの言う事だすけな!」。
 これが効いた。
 Kひとりの思いつきで言うならばこれはもはや、圧倒的に“怪しい”のみの話である。良くても表具屋幸吉レベル、あるいは馬鹿話だ。
 しかし、奴の「兄ちゃん」という要素が介入してくるとことは違ってくる。
 Kの演出か、“兄ちゃん”と“帝大”いう言葉は3音ほど音階があがり、それで皆は「はっ」となったのだった。
 何しろ日本に冠たる東京帝大である。しかるによって、Kの兄ちゃんは絶対的な知識人である。そのような人間がでたらめを言うはずがないし、そもそも日本の航空技術の最先端を行くトップランナーが帝大であることは皆わかっていた。
 「Kのせうことな、今回ばかりは本当かも知んない」。
 私たちは興奮の坩堝に包まれ、急ぎその興奮を我が家に持ち帰る。
 「Kがね、壱円五十銭で飛行機がつくれるっていうんだ」。
 あわよくば、母からそのための資金を調達すべく考えていたのだ。
 鼻息荒く、母に言うと、
 「坊、藪から棒に面白いことをせうな。」
 一瞬、驚いたような顔をしたあと、母親は一笑に付した。
 「そんなん無理に決まっているわね」。
 「でもKの兄ちゃんができるって…」。
 何とか説得しようと、身振り手振を交えて力説した記憶がある。
 しかし母は、
 「からかわれたんだわね」。
 母は、裁縫であったか、何事か細かい作業をしながら、手を休めることも無く切り捨てた。
 もはやこれまで。それ以上は母が取り合ってくれない。それどころかこれ以上続けると、怒り出す可能性だってありそうだ。だから説得は中断せざるを得なかった。
 他の二人も私と同じことをしたのであろう。
 子供の戯言と思われたか、呆れられたか、翌日三名ともバツの悪そうな顔で「飛行機話し」については、「ああ、そういう話もあったね」という感じで一言二言会話をして終わり、あの密談は、その成果を見ることなくうやむやになってしまった。


 しかし、数年か後に、私たちの一人が、ある席でその話題を蒸し返した。
 その頃は小学校の高学年になっていたから、当然飛行機が壱円五十銭などでは、絶対にできないことを知っていた。
 言い出した奴は、からかい半分であったのであろうと思う。

 「K。あの話、どうなった」。
 Kはバツの悪そうな顔をして、素っ気なく。
 「ああ、あれな。できるけど、主ら、運転せえないすけ…」。
 当時、操縦なんて高度な言葉はなかったが、どうあれ小学生に飛行機の操縦などできるわけがない。
 「だからな、あん話は無しな」。
 皆、まさにあんぐりと口を空けた。
 別に「悪いな。勘違いだったわ」。
 とか言うのであるならばまだ分かるのだが、あまりといえばあまりである。
 Kは数年経てもやはり「そのまま」であった。
 「ま、Kの言うことだからなぁ」。
 しかしながら、彼を恨むものは三名のうち一人もおらず、また飛行機が一円五十銭でできるという、その根拠に触れることもなく「夢を見せてくれた」ことにしようと三名で話したのを思い出す。

 そしてその後、大東亜戦争が激化し、日本は敗北のち制空権を失い、飛行機どころの話ではなくなって行ったのは周知の歴史である。

 

 ところで、「国産飛行機」というものは戦前に生まれた私にとっては、遠方から音信が途絶えがちな子供が久しぶりに帰ってきたようで、懐かしく、また嬉しくもある。
 私も齢を重ね、飛行機の操縦どころか、旅行に出かけることもなくなった。今後、実際にこの目で国産飛行機を見るのは難しかろう。Kを含め私を除く仲間二人も鬼籍に入ってしばらく経つ。
 けれど、たまにうつらうつらと睡魔に襲われたときなど、夢を見る。
それは馬鹿げた幻であることは重々承知の上。
 どこかは分からないし、誰がいかにして操縦しているかもわからない。

 けれども我われを乗せた、紙飛行機のような「壱円五十銭の飛行機」が自由に飛ぶ姿だけが鮮やかに思い描ける。


 飛行機にまつわる憧憬。


 「夢を乗せる」のも悪くはないが、この歳になると「夢に乗る」のも、悪くはないのだろうな、と思う。
 (宮司 記)