かぼちゃ祭りについて

 

 五ノ辻稲荷神社の秋季大祭が「かぼちゃ祭り」と呼ばれ始めたのは二百五十年近くも前のことです。

 天明二年から始まった全国的な大凶作は 七年間にわたる長いものでした。
 時の高田城主榊原政永は乏しい藩の財政の中から住民のための支出をどうにか拠出し、また良民や資産家の援助を得て、被害を最小限に食い止めることができたと言われています。またこの時長恩寺(現天崇寺)の住職旭専が同宿の門徒を誘って托鉢し、喜捨を集め、粥を炊いて施したことは有名な話となっています。
 当時この五ノ稲荷神社の神主は中島左近藤原泰則であり、彼は新上村(現東頚城郡大島村の本山家からの養子でした。江戸で学んだものか、彼は農業に詳しく、そのころまだ普及していなかったカボチャの栽培を農民に指導いたしました。
 「ニホンカボチャ」の渡来は、天文年間(一五三二~一五五四)で、ポルトガル船によって豊後(現在の大分近郊)か長崎にもたらされたと思われます。「ニホンカボチャ」はやや高温多湿であることを好み、土質は選びませんが、一般的には砂土か壌土に適しています。栽培が簡単で病害虫が少なく、貯蔵性にも富んでいるので、冬季の長い越後には最適な農作物であったのでしょう。
 そして中島左近は、時期、幾たびか自らが中心となって積極的に「カボチャ」の炊き出しをしました。この炊き出しそのものがどれほど救済に寄与したのかは不明ですが、カボチャの栽培はこれをきっかけに、大きな威力を発揮するようになりました。 飢饉に教訓を得た農民は、カボチャを作るようになり、折からの高田藩の積極的な殖産事業と相まって藩財政は豊かになり、農作物の収穫も上がって、次に襲った天保の大飢饉には、領内に一人の餓死者も出さなかったと言われています。
 五ノ辻稲荷神社の秋祭りは、以前は旧暦の八月九日・十日に行われていましたが、(現在の九月九日・十日になったのは明治になってから)季節はまさにカボチャの最盛期であり、近郷在住の農民は御神徳に感謝するとともに中島左近にちなんで沢山のカボチャを油揚げ(稲荷神社ゆえ)とともに神前に供えたということです。
 そういったこともあり、人々は昔からこの五ノ辻稲荷神社の秋祭りを「カボチャ祭り」といいならわし、祭礼は、大変なにぎわいを呈してまいりました。かつては、特に宵宮で踊る“盆踊り”は壮観であり、また町内には笛・太鼓・三味線の名手も多く、この調べに乗って群がる老若男女は境内(現在より一回り大きかった)からはみ出してついに長門町(現東本町一丁目)近くまで、二重の輪になって広がったと言うことです。

 現在では地元大町五丁目の方々が中心となって、お祭りの際には、従来の“盆踊り”のほか色々なアトラクションを企画し、それが話題を呼んでいます。

 「かぼちゃ祭り」は時代の流れに柔軟に対応しながらも、その根本は揺るぐことなく、ずっと土地の人々に親しまれているのです。

 

※かぼちゃ祭りの催行時間など詳細は「お知らせ」をご覧下さい。